2030年のタイムカプセル

つまらない大人にはなりたくない。

昨日と明日のあいだに 第16話 通過点で


 一人のキャラクターの中でイメージが分裂している。それが《宮沢さん》と呼ばれた女の第一印象だった。
 顔の造作は整っている方だと思う。一つひとつのパーツに強烈な個性は感じないが、全体のバランスがいい。かわいい顔をしていると言って異論のある男は少ないだろう。ただ、本人はそうした《かわいい》要素を排除したがっているような感じだ。
 ショートヘアでほとんど化粧気はない。服装は全体的にくすんだトーンで統一されていた。カーキ色のアーミージャケットにダボタボのワークパンツ。それでいながらボーイッシュという印象はなかった。全く飾り気のない格好をしているのに色気を感じた。
 身体の線がまったく出ない服装の下に隠れているが、意外とスタイルはいいのかも知れない、と思った。
 といっても、それを確かめる術などないわけだが。どうやら、彼女にとって僕のイメージはとても悪かったみたいだ。30歳を過ぎて茶髪に原色のシャツなどを着ているから、軽い男と思われたのかも知れないな。

 深夜。自分の部屋で「オールド・クロウ」をオン・ザ・ロックで飲みながら、今日のできごとを振り返っていた。一応机の上にゲラを広げてはいたが、まったく手つかずの状態だった。
 一番の問題は朝の通勤だ。満員電車に乗れないのでは会社に行けない。途中下車しても定時に着けるように明日は早めに家を出るしかない。以前、新聞で《大腸性過敏症候群がサラリーマンの間で増えている》という記事を読んだ記憶があった。ストレスと過労が主な原因と考えられているらしい。駅のトイレの前で行列を作っている光景を思い出すと、納得がいった。
 自分の身体が突然暴走したような感覚は、思い出したくなかったが。
それにしても。
 この数日間、どうも通りすがりの女性から批判的な視線を浴びることが続いている。《貞子》に捕まってから全てがうまくいかなくなっていた。
 「日本の民間信仰」の中に女難を祓ってくれる神様はいないか思い出そうとしたが、「これ」というのは思い浮かばなかった。

 もう寝よう。

 翌朝。目覚ましをいつもより30分早くセットし、早めに家を出た。
 だけど、結論から言えば、この日も前日と同じような状況になってしまった。電車のドアが閉まると同時に厭世的な気分に襲われた。車内の中刷り広告を眺めて気持ちを紛らわせようとしてもうまくいかない。たまらず2つめの駅で降りた。
 今日は金曜日。今週はもう捨てよう、と決めた。榊原のケータイにメールを打った。この時間は榊原も電車の中にいるはずだったから。

 《まだ身体が本調子でないので、休ませてください。「民間信仰」のゲラを持ち帰っているので、校正は自宅でやっておきます》

 家に帰って両親を心配させるのは忍びなかったので、ゲラを読める喫茶店でも探そうと改札を出た。初めて降りる駅だった。毎朝、ただ通り過ぎていた駅。あといくつで降りるという目印の一つでしかなかった街に僕はいた。
 駅前にまずまずの大きさの商店街があった。わざわざ他所から出かけていくような店はないが、ここに住んでいる人々にとっては、必要なものは一通り間に合うというレベルの商店街だ。風が強い朝だった。公園でゲートボールを眺めながら仕事をするのに適した日とは言えなかった。この風では、せっかくの桜も散ってしまうに違いない。
 《ネットカフェ・マンガ喫茶》という看板がみえた。1階がゲームセンターになっている雑居ビルの2階にあるらしい。ここでゲラを読もうと思った。腕時計を見る。9時を少し回ったところ。会社では僕がいなくても、いつもの日常が始まっている頃だ。
 店内は思っていたよりも広かった。リクライニングシートのあるボックス席も用意されていた。マンガや雑誌の品揃えもまずまずだ。
 受付で「インターネットのご利用ですか?」と聞かれ「マンガの方で、なるべくゆったりしたシートがいいんだけど」と答える。一番奥のリクライニング付きのスペースに案内された。
 インターネットコーナーにはウインドウズのデスクトップパソコンが10台ほど用意されていて、ほぼ埋まっていた。朝の9時に! ほとんどがカジュアルな服装の若者だ。
 忙しい時期に休んでしまったという罪悪感で、リクライニングシートに座ってすぐ、鞄からゲラを取り出したが、どうも集中できない。もともと仕事でなければ喜んで読みたい原稿ではないのだ。マンガや雑誌に囲まれているという環境が目に毒だった。
 数ページだけ読み進め、誘惑に負け仕事を放り出した。どうせ今週は捨てたと決めたんだ。週末もある。
 少年ジャンプとニューズウィークを雑誌の棚から取った。ジャンプは「Onepiece」と「テニスの王子様」だけを読み、ニューズウイークに取り掛かる。「ブログは新聞を滅ぼすか」というレポートが特集タイトルになっていた。アメリカでは、若者を中心にインターネットが情報収集の手段として主流になってきており、新聞が読まれなくなっているという。人気ブロガーを多数抱えるポータルサイトが《市民メディア》として力を持っているいるので、いずれは新聞は老人しか読まなくなってしまうのでは、と記事は結ばれていた。

 中国は経済成長率が高水準で推移する一方で、共産党がいまだに言論統制を敷いている。新聞も政府に都合のいい記事しか掲載を認めない。そうした中、市民がブログを《ペン》として情報操作の壁に風穴を開けようとしている。記事はそう伝えていた。
 結局、夕方までマンガ喫茶にいた。滞在時間は7時間。料金は2千800円。仕事は控えめに言って、ほとんど進まなかった。

 智子の彼氏の宮本君に礼を言わなければいけないと思いついた。智子のケータイに電話をしてその旨を伝えると、「店に行くつもりだったからそこで合流しよう」という話に落ち着いた。宮本君が働いている居酒屋は渋谷にある。繁華街で飲むのには抵抗があったが、「変な女にからまれないよう私がガードしてあげる」と智子に押し切られ、6時に渋谷で待ち合わせることになった

 ●第17話につづく。


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テーマ:連載小説 - ジャンル:小説・文学

  1. 2007/08/07(火) 22:06:47|
  2. 小説